「あきらめる」っていい言葉かも!?

今日、おもろいコラムを読みました。
「長靴を“あきらめる”経験」というタイトルのコラム(原文はこちら)です。
ここで挙げられている話を引用すると

それというのも、実際に田植えを経験される方のほとんどが、最初は長靴をはいてこわごわ田んぼに入っていっても、そのうちあきらめて脱いでしまうんです。一歩一歩、長靴を越えて泥が入るかもしれないと恐れつつ足を踏み出すのは気が疲れますし、踏み込んだ足を抜くのがまた一苦労で、ともすれば長靴だけ泥の中に残して足を抜いてしまいかねない。そんなわけだから、けっきょく長靴をあきらめて、素足で泥に入った方がはやいって気づくんですね。
 ぼくがたいせつだと思うのは、このときの「あきらめて」という経験なんです。それまで足を汚さないようにと考えて作業をしていた、それをあきらめて素足で泥に入る。そういう経験。でもね、ちょっと考えれば分かるように、あきらめてといっても、実際には何を失ったわけでもないんです。苗を植えるという作業は完遂できるし、むしろ効率が上がる。脚についた泥だって、横の小川で洗い落とせば済む話ですし。おもしろいんですよ、それまでこわごわ作業しているように見えた人たちの目が、素足で泥に入ったとたん、輝きだすんですから。子どもなんてまさにそうですね。笑顔が、何倍もすてきになる。


これって、結構共感できません?
自分がかたくなにこだわっていた事、守ろうとしていたものをふっと「あきらめた」瞬間に今までうまくいかなかったことがうまくいったり新しいアイデアが浮かんだり。
そして、
「何で自分はあんなどうでもいいことにこだわっていたのだろう」
とか、
「自分が守ろうとしていたものって一体...」
って思ったり。
人って無意識のうちに固定観念をもって世界を見てしまっているんでしょうね。
こうでなきゃダメだ!っていう感じで。そして、それに対して何の疑問も持たなくなってしまう。
これってある意味思考が停止してしまっている状態なのかもしれません。
何か壁にぶち当たったときに、その壁を壊したり乗り越えたりすることだけに集中しているとその壁の隅っこの方に小さなドアがあることに気づかない、見えない。
「一生懸命」はいい言葉だけど、ときに見えるものも見えなくしてしまう。
「あきらめる」という選択で見えてくるものも沢山あるはず。
「あきらめる」
否定的な印象が強い言葉ですが、こう考えるとまんざら悪い言葉でもないですね。

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